なんか、ジェンダーの話がしづらい件

今年もやってきましたね、国際女性デー。ジェンダー平等について考え、女性をエンパワメントする日です。

…なのですが…ここ数年ずっと考えていたことがあります。ジェンダーって話題にしづらくないですか?自分の本音を、臆せずに共有できるでしょうか?私自身はとてーも話しにくいと感じています。

(いや、お前いつも空気読まずにジェンダーについて話してるじゃん…!というツッコミは…その通り!とても話しにくいと思いながらも、次の世代により良い世界のバトンを渡すためには大切な事なので話すようにしています。)

地雷が多すぎる…

まず、「フェミニズム」について思うことを少し。自分にラベルを付けるのが好きではないので、私が自らフェミニストと名乗ることはありません。でも、フェミニズムが女性の権利を前進させるための重要な問題提起をしてきたこと、そして、私たちの社会がこれからも持続的に機能していくうえで、ジェンダー平等の考え方は必須だと思っています。「ジェンダー平等とは実際にはどういう状態を表すのか?」という細かい在り方を議論する余地はあっても、現状のままでOKです、という事はまずありえません。

ジェンダーに基づく偏見が社会構造やステレオタイプに根ざしていることを問題視し、全てのジェンダーの権利向上を目指すのがフェミニズムの本来の役割です。しかし、近年オンラインで目にするフェミニズムは、他人の行動を厳しく監視し、非難することばかりに重きを置きがちなのではないか…

…と思っていたら、ちょうどThe Headlineのイシケンさんが似たような趣旨の記事を書いていらっしゃいました。

言語・表象(イラストとか写真)は、現実社会の認識を形づくるから、女性を差別的に扱っているイラストを批判しようとか、ミスコンをやめようとか、そういう話は分かるし、それは大事だと思うのだが、やはりものによってはドラスティックな制度変更を目指すのは大事だなと思う。

この記事に書かれていることの全てに賛同という訳ではないのですが、特に制度に関する議論が置いてきぼりになってきている点にはとても同意。

もちろん、現行のシステムや慣習が女性に不利なことは明白で、女性の制度改革への直接的な影響力も限られている。性犯罪に遭遇しても警察が適切に対応すらしてくれない現実の中、女性たちができることは、個人の体験、観察から声を上げ、お互いの声に反応して連帯を強めることです。この点で、オンライン空間は価値ある場を提供しています。

しかし、フェミニズムの議論はしばしば、「言ってはいけないこと」「してはいけないこと」に焦点が当てられがちで、小さな過ちも大きな非難や「キャンセル」につながります。フェミニズムに対する反論は許されない。そういう世の中って、ジェンダー平等を重視している男性だって怖いと思うんですよね。どこが地雷になるのかわからず、うっかりミスをしてしまうと弁解の余地も与えられないわけです。

女性である私ですら今、こんな事書いたら差別主義者認定されてしまうのだろうか…と思いながら言葉を書いては消し、書いては消し、をしているので、男性だったらさらに話づらく感じる人もいるのでは…と想像しています。

ヘイトが重すぎる…

さて、今度は反対側。

最近オンライン空間では「フェミ」とか「あの界隈」とか言えば、冷笑の対象になり、際限なしに叩いていい、そういう雰囲気が感じられます。「ジェンダー」や「多様性」に対するアレルギー反応のように、これらの言葉が登場すると、とりあえず叩く。女性が不平を言えば攻撃が加速し、中には男性優位の思想を露骨に表すアカウント(性別を理由に女性を排除する事を「差別ではなく区別」とする、遺伝子的に女性は男性より劣っていると名言する、容姿の揶揄、「レイプされろ」などの暴言、など)も見かけます。

正直、私は彼らのモチベーションはよくわからないのだけれど、以前こんな記事を読んだことがあります。

弱者男性論の最大の弱点は、「男性のつらさ」という問題を取り上げながらも、その問題に真正面から向きあって解決する議論をおこなわないことにある。代わりに弱者男性論でおこなわれているのは、「女性」(または「フェミニスト」「リベラル」)という属性を仮想敵にして、自分たちのつらさの原因はすべて彼女たちに責任があると主張することで、弱者男性である読者たちの溜飲を下げさせるための議論だ。

うーん、そんなに多くの男性が自分を「弱者」と見ているのかは疑問が残りますが、「女性」や「フェミニスト」という属性が仮想敵になってしまっていて、「憎悪」というレベルまできてしまっているのは強く感じます。現実の女性との接点を持たず、偏った情報やディスインフォメーションによるエコーチェンバー内で育まれるヘイトが増大しているように見える。時折、実名の女性のアカウントが大量の誹謗中傷投稿をされている状況を見ますが、オンライン空間に留まらず、実世界での被害に繋がってしまう危うさを感じます。

オンライン上の対立は不毛

…と、ここまで書いていて思った。きっと私たちが「ツイ廃」(って今でも言うのか知らんけど)すぎるのだ。たかだかSNSじゃないか。本気で受け取らなきゃいいんだ…

…とは言っても、普通にSNS使ってて目に入ってきたらどうしても気分が滅入ってしまうのです。

ジェンダー問題に限らず、オンライン上の議論は二項対立に陥りがちです。そこに政治家も乗っかったりして、「リベラル対保守」の争いが勃発。でもそういう対立って、結局相手の「論破」(死語)が目的になってしまって、建設的な議論が為される事はないですよね。お互いに気に入らない意見を言った人を「右」「左」のレッテル貼りをして罵り、嘲り…不毛すぎる。見れば見るほど心が無になっていくのです…(ついでに政治への失望も募っていく)。

日本のネット空間が匿名なのも問題です。私はよく「この匿名罵詈雑言アカウントの中の人は、普段どんな人生を送っているんだろう?職業は?家族はこのアカウント知ってるのだろうか?」と想像を巡らせてしまうのですが。何より、匿名であるが故に「こう考えている人たちがもしかしたら意外と身近にいるのでは?」という考えがよぎる…。

本当にそうなのだろうか

ここで闇おちしそうになるのを踏みとどまって考えてみます。これらのオンライン上の現象が現実世界をどれほど正確に反映しているのか?おそらくバズっているアカウント数なんて絶対数は少ないだろうし、システムのアルゴリズムにより、現実よりも極端なコンテンツを多く見せられている可能性も高い。また某SNSなんか最近インプレゾンビばかりなのでトレンド入りとかはもう信憑性はないのかもしれない。

国際女性デーの今日、LinkedInのタイムラインは、ジェンダー平等を目指して積極的に情報を情報発信する人達の投稿で溢れかえって見えます。女性も男性も。LinkedInコミュニティが特殊なのかも知れないけど、匿名SNS上に蔓延する「溜飲を下げる」目的の発信ではなく、もう少し穏やかに建設的な議論をしたい人も、現実には多いのではないかと信じたい…。

システムのせいにしちゃわない?

以前私はジェンダーとデザインに関する記事を書きました。

この記事から4年、少し考えが深まった部分もあるのですが、ジェンダー問題にはシステム、制度、ツールのデザインが深く関わっているという基本的な見解は変わりません。

ジェンダーに関する議論は多くの場合、個人の経験から始まります。今まで散々我慢をして怒りを内側に押し込めてきた人達が感情を出して声を上げられる社会は絶対に必要です。ですが、問題が認識された時点で議論を「個人の体験」から「システムや仕組みの問題」へ切り替える事を考えてもいいのではないでしょうか。感情に基づく議論はなくならないかもしれませんが、非難合戦よりも、もっと建設的な議論が可能になるはずです。

先日、元陸上自衛官の五ノ井里奈さんが「世界の勇気ある女性」としてホワイトハウスで表彰されました。これからも声を上げる女性は増えていくのではないかと思います。また来年IWDがくるまでに、ゼロサムゲームではなく、建設的に自分たちの社会をアップデートしていけるような議論が増えているといいなと思っています。