もう一年前の話ではあるのだが、今日は8月31日(あぁ!日付をまたいでしまった)!8月は終戦の月で、過去の戦争について定期的に振り返るいい機会だと思うので、改めて記事を残しておきたいと思う。
2025年の7月~10月に、東京国立近代美術館で開催されていた、「記録をひらく 記憶をつむぐ」展の忘備録。今振り返っても、デザイナーやアート・メディアに関わる人間は見るべきだと感じた展覧会だった。
会場は8つのセクションに分かれての展示。アジア・太平洋戦争が始まった頃の作品から終戦、戦後まで、時間経過と共にメディアに描かれるものの変化も目に見えてくるので、短い時間だったが戦時中の情報デザインの追体験のような感じがした。盛り沢山だったので全て書きたいのだが、一部だけ、気になった作品についてメモ。
まず入口付近にあった、宮本三郎の「本間、ウエンライト会見図」という作品。いきなりここで軽く衝撃を受けてしまったのは、会見の様子を捉えようとカメラを構える人たちの姿が、現代のメディアに関わるの人たちの姿と妙に重なってしまったから。公式ウェブサイトに展示の様子の写真があるのでぜひ見て欲しいのだが、この作品、ある程度の大きさがあり、自分がその場にいるような感覚で視界に入ってきた。そのため、軍服のような服を着てカメラを回している人が、今、現代からタイムスリップしてそこにいるのではないか…というような感覚を持った。
「この人は、いつどんな事情でカメラの操作を学んだのだろう」「初めから軍に関わっていたのだろうか」「もし今戦争が始まったら、現在の報道に関わる人たちが軍服を着せられて、こうやって戦争の様子をレポートするようになるのだろうか…」のっけから、そんなことを考えさせられる作品が展示されていた。
その近くに展示されていて目に飛び込んできたのは、「万博博覧会」という文字が見て取れるポスター。ビジュアルだけでみれば、ミニマリズムで配色が美しい…。まさに現代でいうビジュアルデザイン、グラフィックデザインにあたる作品。本来であれば、1940年に開催されるはずだった日本万博博覧会のポスター。
現在(2025年)、大阪万博が開催されている時に、この作品がこの展覧会で展示されていることに示唆的なものを感じた。
同じエリアのガラスケースに展示されていた本の中には「講談社の絵本」が。茶の間で喜んでいる家族が描かれていて、真ん中には、おそらくおもちゃのヘルメットを被り、日本刀のようなものを持って「万歳」する子供の姿。向かい側にも日本の旗をふる女の子の姿。もういきなり心をギュッと押しつぶされる感じがした。「ニイサンバンザイ」。こんな小さな子供たちが見る絵本でまで、戦争に行くことを賛美している。
第2章は「アジアへの/からのまなざし」。タイトルの通り、大陸へ渡った側の景色が描かれている作品群だった。新しい土地での希望に満ちた描写が多いが、どうしてもむしろここに描かれなかったもの、景色を想像してしまう。美しい朝鮮の女性たち、観光案内の無垢さ、開拓地、希望としての表現。アート作品の技法としてはよくできていて、どれも美しく見える。ミレーの「落穂拾い」のような柔らかいトーンの雰囲気の絵画もあり、「民族共和」「五族共和」という友好的で平和なイメージが次々と並ぶ。空爆の絵ですら、その見事な構図に空の清々しさを感じて、きれいだと思ってしまう…と考えていたその時、アメリカのシアトルのボーイング美術館で見た、日本に対する爆撃をヒーローとして勇ましく描いた展示群を思い出し、突如怒りが沸いてきた。どちらの国に対しても。
「描かれなかったもの」が気になっている中、その隣りにはまさに日本側が描かなかった姿を描いた作品群が。
最初に目に飛び込んできたのは魯迅の木版画作品と、「抗日」の文字。描かれいてる人は苦悶の表情を浮かべていて、まさに何かに抗っているのがわかる。続いて主に欧米中心に日本を批判する、国際世論を載せた雑誌などの展示。さらにそれらの批判に対する日本の反応。「そもそも欧米が始めたゲームだろう」と言わんばかりのカリカチュアが並ぶのだが、でもカリカチュア自体がそもそも欧米的なスタイルなので、真似っこに見えてしまう…。
第3章は「戦場のスペクタクル」。このあたりの作品群は、一言でいうなら「メッキ」という感じがした。尊敬される世界のリーダーでありたい、欧米のようになりたい、力を持ちたい、アジアを解放する救世主でありたい、でも欧米には認めてもらえない、しかも段々と国際的にも悪として非難されてきている、現地の人は抵抗している。そんな状況を認めたくなくて、いやそんなはずはない、植民地は良いことのはずだ、自分たちはいい世界を作っているのだ…と信じたい…という、揺れる心理みたいなのが表現されている気がした。なにせ、どの作品も欧米の美術館でみたことあるような「真似」っぽいものが多い、テクスチャがヨーロッパで、描かれる現地の女性はなんだか嘘くさい、戦場のスペクタクルも綺麗に描かれすぎて嘘くさい。理論が破綻してきていることの反動なのか、そのうち「神」とか「殉教」とか宗教がっぽい表現が多くなり、段々と神頼みで雲行きが怪しくなってきた感じがする。
ちなみにこのセクションでは「猪熊源一郎」や「藤田嗣治」という名前が多く出てきたのだが、この有名な画家たちの見事な作品でも「嘘っぱち」というふうに感じてしまった。この二人に関しては後日また別の展覧会で出会うのだけれど、それはまた次の記事で。
第4章は「神話」。前章の雲行きが怪しくなってきた流れがさらに強まり、神話とプロパガンダの親和性を展示するセクション。紀元2600年という文字が出てきたり、前章では見かけなかった、「日本」っぽい絵画とか(例えば横山大観の作品とか)なんか急に「日本の伝統」的な話がでてきた気がする。戦況も段々と悪くなってきた時期なのが見て取れるし、八方塞がりになっていよいよ神に頼るようになってきた。玉砕の描写など、やっぱり神々しく描かれるし、そうか、もうすぐ神風の時間がやってくる…。藤田嗣治が描いた玉砕の絵は、トーンが似てるわけではないが、なんとなくダンテの地獄編を思い出した。
さて第5章は国内に視線が移り、「日常生活の中の戦争」。このセクションでは、日常の中で目にするメディアに載っていた作品群が登場。まさにデザイナーとして考えさせられる空間だった。
翼賛会の作るポスターってなんか、今のスポーツの大会でもありそうなデザインが多い。また、「肉弾三勇士」など、命を投げ出した兵士を美化する表現がミルクキャラメルのパッケージに!ミルクキャラメル…マジか…。空襲のイメージを描いた作品は、アメコミっぽい。きっと対等に喧嘩しているつもりだったのだろうな。
男性が減ってきている中、それまで家庭に閉じ込めていた女性を「女性活躍」として描き出し、千人針を作らせ、兵隊さんを励ますというポジションにおく。千人針を送られた兵士たちは、そのうち特攻隊に…。どれもこれも空っぽで、虚構ばかりで、見ていて苦しくなる。
こちらは、当時の女性画家についての記事。
でも特攻とか玉砕とか、私たちは現代にいて実際に何が起こっていたのか知っているから、想像できるから虚しく感じるのであって、当時の作品たちはどれも美しく描かれて「痛くない」。生々しい、グロテスクな表現はない。でも、国内にいた人たちも空爆されて親しい人が死んでいる時期のはず。みんな、この作品を見てどう思っていたのだろう。
(これはネットで見つけた肉弾三銃士パッケージの画像。かわいい…けれども…。)
第6章、「身体の記憶」。敗戦後。ここからがすごかった。溢れ出すトラウマ、トラウマ、トラウマ。戦争初期の、宗教画のような、綺麗に服をきて、血もそんなに出てなくて、勇ましくて助け合っていて希望に満ちた表現から、肉体的にも精神的にも壊れてしまった人間の表現に一気に切り替わった。また、敗戦国として国全体が「フェミナイズされた」、つまりコントロールされ、搾取された現実があり、消費される様子も痛々しかった。
もちろん原爆の絵も多数展示してあった。呑気にアジア諸国で破壊をしつくす様子を賞賛していた頃はよかった。でも爆弾を落とされてみて、これらの絵画に表現されているように、自分の親しい人たちが「肉の塊」になって、初めて自分たちが何に足を突っ込んでいたのか気付いたのかもしれない。
このあたりから反戦の表現が増えていくのだけれど、ある意味敗戦の痛みの反動でしかないようにも見えて、少し危うく感じる…。
残念ながら、この辺りで閉館の時間になってしまった。開戦から戦後まで駆け足だったけど、見事に経過と国の雰囲気が感じられるようでとても勉強になった。
これらの作品の制作に関わった人たちの戦後の様子を伝えて、展覧会は終わっていたのだけれど、どうしてもどうしても、今もし戦争が始まったらどれだけのクリエイターがこういったプロパガンダ制作に携わることになるのか、ということを考えてしまった。自分の仕事はどうなるのだろう。自分は、どういう選択をするのだろう。
色々と考えさせられる展覧会だった。またどこかのタイミングで開催してほしい…。
公式サイトで概要、作品リストが見られます。